酔眼漂流読書日記

本と音楽と酒場と言葉

わたしを離さないで

わたしを離さないで

わたしを離さないで

とても怖ろしい本です。
物語は SF 仕立てというべきなのかもしれません。ある施設で共に育った、特別な若者たちの成長の過程が主人公キャシーの視点を通した回想と言う形で淡々と語られます。その抑制された語り口は「日の名残り (ハヤカワepi文庫)」を彷彿させますが(この作品では主人公の執事の回想という形で物語が進みました)、語られる内容はもっと高度に抽象化された「人間が人間であるための何か」です。過ぎ去った古き良き時代を扱っているという意味では同じですが、「日の名残り (ハヤカワepi文庫)」が伝統的な英国社会への思いを扱ったものだとするならば、本書は「過ぎ去った若い日々」への思いを扱ったものということになります。
疑問もあります。たとえば主人公たちはなぜこのように諦観をもって、自分たちを待ち受ける運命を受け容れているのかは説明されません。普通の SF ものなら、そこに疑問を感じた主人公たちが運命に逆らうべく反乱を企てて云々、といった「アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))」的展開になりがちなのでしょうが、そこはあっさりと乗り越えられていて、ただ避けることのできない日常の運命の中で悩み、苦しみ、愛し、成長する子供たち、そして若者たちの心の動きが、緻密に描かれています。
また「理想主義」あるいは「善意」というものが中途半端に挫折した結果、より残酷な結末を呼び込んでしまう悲劇も描かれています。この辺のテーマは「日の名残り (ハヤカワepi文庫)」でも理想主義に燃えてナチスへの協力を行う人々の運命という形で扱われていました。
しかし、結局現実の私たちも、見えない運命を受け入れてその中でじたばた生きているだけです。ヒーローが出て来て私たちの日常をがらりと変えてくれるわけではありません。この物語はその制約を少し強めて提示しているだけだと思えば、この物語の真の「怖ろしさ」が読み終わったあとから満ち潮のように心を濡らし始めます。