酔眼漂流読書日記

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不登校、選んだわけじゃないんだぜ!

不登校、選んだわけじゃないんだぜ! (よりみちパン!セ)

不登校、選んだわけじゃないんだぜ! (よりみちパン!セ)

私のように学校(小中高)に無批判に通っていた者にとっては、不登校の「問題」はなかなか自分の領域の問題として捉えることができません。この本はかつて「不登校児」だった著者による、個人的告白の本です。
不登校の問題に対して、何らかの「答え」を導き出そうとするものではなく、現在の不登校に対する世間の一般的な態度に対する「違和感」を表明した本だということができるでしょう。その違和感が一番鮮明に表現されているページ(157ページ)を引用しておきましょう。

不登校は病気ではないとされ、積極的に認めるに値するものとされ、親は楽になり、子どもも楽になった。でもそれで解決ではなかった。
今、わたしは言いたい。
「選んだのではない、そうせざるをえなかった。でもそれをしてよかったと思う。やっぱり選んだのかもしれない。いや、違う。選んだにしては不当に生きにくい。不登校は社会の問題だ。学校が悪い、大人が悪い、社会が悪い。だけど、学校に行かなかったのはわたしだ。わたしの不登校はわたしのものだ。でも責任なんて負うつもりはない。絶対にわたしのせいじゃない。そして、誰のせいにもしたくはない」
うーん、われながら、支離滅裂だ。だけど、「主体性」を手に入れようとすると「責任」がついてまわり、「責任」が免除されると「主体性」まで奪われてしまうという、そんな構図から脱したいのだ。
「どっちにする?」
という二者択一の問いかけを、振り払ってしまいたい。

あくまでも緊急避難としての「不登校『選択』の論理」は、最近流行の「自己責任」という文脈に容易に回収されてしまいそうです。不登校ならば社会的に不利になっても仕方がない、それを「選択」したのは自分(オマエ)なのだから、という論法ですね。
規制緩和をするからあとは勝手にやれ、それで不利になっても自己責任だから仕方ない」社会の隅々にこうした論法が行き渡りつつあるような気がしてなりません。もちろん過度な保護が対象に害をなすことは事実でしょうし、対症療法にも限界があります。結局求められているのは個別の細々した規制や対処や議論ではなく、白洲次郎の言うような「プリンシプル」に基く行動なのかもしれません。

学校というもの、教育というもののありかたはどうであれば良いのでしょう。この本はこうした問いを改めて考えさせるきっかけにはなると思います。私自身まだまだ未消化なのですが。