酔眼漂流読書日記

本と音楽と酒場と言葉

文章読本さん江

6月30日のエントリに挙げたものの、30日中に読み終わらなかったために、下のエントリに入れ損ないました。ということで、下半期「心に残った本」の一冊目はこの本です(笑)。
文章読本」という、よくよく考えると、実は何を目指して書かれているのかはなはだ怪しいジャンルの一群の本を取り上げて、そのスタイルや内容をあれこれ吟味して行きます。
前半で中心的に取り上げられるのは

といった定番「文章読本」で、その系譜につながる亜流や同工異曲的なものも俎上にのせて、「どうして『文章読本』さんて、皆ご機嫌なのかしら?」と首を傾げます。そうやって並べて読んでみると確かに「ちょいとこっちに貸してみな、オイラが正しい文章の書き方を教えてやるから」といった気分に満ち満ちていることがわかります。そこを指して斎藤氏は「ご機嫌」と言っているのですけれどね。
しかし私にとって、本書で本当に面白かったのはこの部分ではなくて、実は中盤から後半にかけての明治以降の「作文教育」の系譜を辿った報告の部分でした。例えば私たちが何気なく使う「口語体」という言い方の対極に「文語体」というものがあるのですが、実はこれは何を指していたのでしょうか?普通明治の文章史を考えると「言文一致運動=口語文の完成」という側面が主に取り上げられますが、実は「雅文体」と「漢文体」が適度にミックスされた文語体が完成したのも同じ明治期だったということが分かり易く解説されています。
同様に旧かな使いと新かな使いの支持者同士の熱いバトルの様子や、子供たちの文章教育の現場における「自由選題 vs 課題主義(すなわち、「みずからの感じるところをありのままに書かせよ」派 vs 「選んだ題材を用いて文章の技法を磨かせよ」派)」の闘いなど、傍から見ている分にはともすれば苦笑せざるを得ないような面白いエピソードが満載です。
学校の作文、とりわけ「読書感想文」に苦しめられた人にはさらに身に染みる本かもしれません。
最後にこんな部分を引用しておきましょう(231ページ)

ところが、学校を卒業したその日から、過酷な現実が待ち受けている。「作文」「感想文」は、一般の文章界では差別語である。「子どもの作文じゃあるまいし」「これでは子どもの感想文だ」は、ダメな文章をけなすときの常套句である。学校のなかでは「子どもらしい」という理由で賞賛された作文が、学校の一歩外に出たとたん、こんどは「幼稚である」という理由で嘲笑の対象にされるのである。子どもらしい「表現の意欲」を重んずる学校作文と、大人っぽい「伝達の技術」が求められる非学校作文は完全に乖離している。なんという理不尽!