酔眼漂流読書日記

本と音楽と酒場と言葉

私たちの社会を息苦しくして、その結果ますます状況を悪くするアルゴリズム

秋葉原の事件を受けて書かれた内田氏のエントリーより抜粋

ひとつの出来事の解釈可能性のうちから、自分にとってもっとも不愉快な解釈を組織的に採用すること。
これは事実レベルの問題ではなく、物語レベルの問題である。
そして、この「ひとつの出来事の解釈可能性のうちから、自分にとってもっとも不愉快な解釈を組織的に採用すること」は私たちの社会では「政治的に正しいこと」として、このような事件についてコメントしている当の社会学者や心理学者たちによって、現につよく推奨されているのである。
「ハラスメント」にはさまざまなヴァリエーションがあるが、私たちがいま採用している原理は、あるシグナルをどう解釈するかは解釈する側の権限に属しており、「加害者」側の「私はそんなつもりで言ったんじゃない」というエクスキュースは退けられるということである。
「被害者」はどのようなコメントであれ、それが自分にとってもっとも不愉快な含意を持つレベルにおいて解釈する権利をもっている。
「現に私はその言葉で傷ついた」というひとことで「言った側」のどのような言い訳もリジェクトされる。
これが私たちの時代の「政治的に正しい」ルールである。
その結果、私たちの社会は、誰が何を言っても、そのメッセージを自分のつくりあげた「鋳型」に落とし込んで、「その言葉は私を不快にした」と金切り声を上げる「被害者」たちを組織的に生産することになった。

記号的な殺人と喪の儀礼について (内田樹の研究室)

「私に」とって「嫌なものは嫌」「不快なものは不快」という態度を「政治的に正しい」ものとして認める事は、議論の出発点として採用しやすい(知的負荷を回避して、感情的なものに訴えれば視聴率はのびるのだから当然か)ものですね。しかしこれは知的怠慢に過ぎません。忙しい現代人の「判断効率」を上げるためのこうした暗黙的ルールが無力感と息苦しさと、人間の記号化を押し進めているのでしょう。

今回のような事件報道はどれも、被害者=良い人、加害者=悪い人という図式に押し込んで、早く安心したいかのようです。そして被害者と被害者の関係者は悲嘆にくれなければならず、加害者と加害者の関係者(親)は世間に対してどう謝罪をするのだという圧力に屈しなければなりません。しかし通り魔事件の被害者の来歴を見せ物のように掘り返し「こんなに良い人だったのに亡くなったなんて!」と死人に口無しのごとくプライバシーを暴露し続けるマスコミには救いがありませんね。