酔眼漂流読書日記

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滝川市教委が「いじめ」認める・女児自殺で陳謝

引用:日本経済新聞

北海道滝川市の小学校教室で昨年9月に自殺した6年生の女児=当時(12)=が自殺した原因について、滝川市教育委員会は5日、「遺書の内容を踏まえ、いじめと判断する」と初めて認め、陳謝した。
田村弘市長らは同日夜、女児宅を訪問し、遺族に「いじめの把握と対応に不十分さがあった。子どもの苦しみ、家族の気持ちをないがしろにして申し訳ありません」と謝罪した。

確かにああした遺書を読めば、普通に考えただけで「いじめ」に近いものがあったのではないかと想像はつきます。それをまず報道する側が「教育委員会はイジメを隠蔽した」と攻め込んだので、受け手の教育委員会側はパニックを起こして「イジメの事実は確認できていない」といった下手な弁明に終始し、それが火に油を注いでこのような「陳謝」というできごとに発展したわけですが…。

報道機関はこうした浅薄な「責任」のあげつらいに終始して、そもそもの発端である「イジメ」の構造そのものについて検証しようとはしていないように見えますね。分かりやすい「悪」(この場合は隠蔽行為)をとりあげて全否定の姿勢で相手を叩くというこういう報道姿勢そのものが、結局「イジメ」の構造と相似であることに気付いているのでしょうか。
子供たちはそうした大人の世界での「イジメ」を映し出している鏡に過ぎないのではないでしょうか。

もちろん今回の「自殺案件」に対する教育現場や教育委員会そのものの感度の鈍さには、責められても仕方のない部分もあるでしょう。しかしそれを単純で分かりやすい「隠蔽行為への非難」へとすりかえてしまっては、結局何の解決にもなりませんし、そうした構図が世の中にばら撒かれることにより、人の心が荒んで、ひいては子供たちの心を蝕むことになるのだと思います。これは悪循環でしょう。

まあそれにしても、変な構造です。
女の子が自殺した、遺書が残されている、イジメがあったらしい。
たぶんここまでは周囲にはすぐに分かった筈ですね。
教育委員会側だって、この時点で「イジメはなかったことにしよう」などと共謀する筈もなく、現場に対して「調査せよ」位は言ったのではないでしょうか。
しかし現場側にしてみれば調査するということは、子供たちを一人ひとり「取調べ」なければならず、それは子供たちを指導・保護する立場の教師にはなかなか難しいことだと思います。
「君たちが苛めたからxxちゃんは自殺したんだ」とはなかなか言えないでしょう。かといって、事前に苛めの把握に努めるべきだったのだという非難を向けても、現在の小学校教師の異常な多忙さを考えると、教師個人の責任に帰するのも無理があるでしょう(まあ「調査せよ」といった側も、もしそれだけで何かの「仕事」をしたつもりになっていたとすると問題なのですが…)。

報道の問題に戻れば、家庭の躾の問題、教師の負荷の問題、教育システムでの取り組みの問題。それらを丁寧に議論せずに、すぐに「犯人」探しに走り回り、「犯人」と目された人が謝ればそれでおしまいで、非難していた側も満足ということでは、この一連の騒ぎは娯楽の一種だったのか?と思われても仕方がないのではないでしょうか。