酔眼漂流読書日記

本と音楽と酒場と言葉

柴田さんと高橋さんの小説の読み方、書き方、訳し方

柴田さんと高橋さんの小説の読み方、書き方、訳し方

柴田さんと高橋さんの小説の読み方、書き方、訳し方

実は私は今まで高橋源一郎氏にはあまり興味がなくて、この本を買ったのも現代アメリカ小説翻訳の第一人者の柴田元幸氏の読書や翻訳、そして創作に関するお話が読めるのかなと期待してのことでした。
ところが実際に中を読んでみると、高橋氏が7割くらい喋りまくっています(笑)。
まあ、そういう内容だったので期待はずれだったかというと、実はとても面白く読めたのでした。
実は昨日紹介した「ためらいの倫理学―戦争・性・物語 (角川文庫)」の解説も高橋氏だったのですが、それも結構面白かったので、読まず嫌いだったかなと思っているところです。

大なり小なり生きるために私たちは「物語」を必要とします。その物語を読むことと書くことの関係性について、本書では高橋氏という作家自身のスタイルや、柴田氏が訳した近現代のアメリカの作家達、そしてその雰囲気を日本に持ち込んだ片岡義男氏や村上春樹氏のスタイルを肴に色々な分析を試みています。また読むべき翻訳小説や、「ニッポン」を形作る小説、是非翻訳して海外に紹介したい小説などを挙げていろいろと話し合う部分も、面白く読めました。その選ばれた作品のリストが正しいか正しくないのか、という議論は野暮で、何を考えてそれを選んだのか、という議論に参加(といっても読者は読んでいるだけですが)することがとても楽しいことと言えるでしょう。
海外小説と日本の小説の一覧を挙げて話し合っている章は、読書好きには得るところが多い楽しい部分だと思います。

よく「翻訳小説は『翻訳調』だから読まない」という人がいます。もちろんその気持ちは良く分るのですが、そういう人も別に日々「候文」を読み書きして暮しているわけではなく、いわゆる現代文を使って生活している筈です。
言文一致運動が、明治時代の翻訳家達によって始まり、出来の悪い翻訳も沢山生み出され、そのなかで生き残ったものが現在私たちが使う言葉を作って来たと考えると、ある程度の「実験的側面」は仕方がないのかなとも思います(笑)。実際最初は多くの読者に抵抗があっても、のちにひろく受け入れて行く表現も多々あります*1

とはいえ、あまり宜しくないのが、英和辞典をひいたときに、そこに書いてある「訳語」をそのまま使おうとする硬直した翻訳ですね(流石にプロの翻訳家にはあまり多くない。。。と思いたいのですが、ときおり変な文章に出会うと、それは定訳を何も考えずに流し込んでいる可能性が大かもしれません)。こうした弊害は皮肉なことに、むしろ翻訳リソースが充実すればするほど目立って来ているような気がします。

*1:もちろん、それによって日本語が「下品」になったという議論だってあり得るでしょう