酔眼漂流読書日記

本と音楽と酒場と言葉

女ひとりで親を看取る

女ひとりで親を看取る

女ひとりで親を看取る

認知症は恐ろしい病です。
人が人であるということはどういうことなのか、この「私」とは何を指しているのかに対して根源的な問を突きつけてくるような病だということができるでしょう。

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)」にも述べられているように、生き物の身体は数年で全ての物質が入れ替わってしまいます。数年後にあったそのひとは、もう昔会った人とは物質的には無関係なのです。そうして全てが流転する構造の上に、ひとの姿形が作られ、そしてさらにその上にひとの心が作られる。死んで魂が去ったあとの体は「私」ではないのなら、飛び去った精神こそが「私」なのでしょうか?

しかしその「精神=私」とは結局日々積み重ねられた記憶に他ならないのです。そして認知症はその「私」を形作る記憶をまずは蝕む病気なのです。ではどれほどの記憶が去れば私は私でなくなるのか?最後のひとかけらが残っているうちは、どんなに支離滅裂になってしまっても「私」は「私」のままなのか?

本書の山口美江氏は2005年〜2006年にかけて、自身の父親の介護に直面します。頭が良くて洒脱で、若い頃に妻を白血病で亡くしたあとは、ひとり娘(山口氏)を男手ひとつで育て上げた父親は、気が付けば認知症の病魔に侵されはじめていたのでした。アルツハイマー認知症と診断された父親との自宅介護の生活は最初は穏やかに、しかし段々と坂道を転げ落ちていくように深刻さを増して行きます。

実務能力に長け、プライドも高かったひとであればあるほど、自分に起きた異変をなかなか受け入れることができず苦しみ、それを支える家族も現実と希望の狭間で悩み続けるということになります。

本書は父親の死後2年を経て出版されたものです。乾いたユーモアの文章はとても読みやすく仕上げられていますが、娘として愛していた父親の「精神」が崩壊し、やがて霧散していく様子を見つめ続けた日々は筆舌に尽くしがたいストレスをもたらしていたに違いありません。

現在認知症患者を抱える家族の方々、特にあまり相談できる人がいなくて悩んでいる方に特にお薦めしたい本です。本書のタイトルは「女ひとりで・・・」と書かれていますが、あとがきにもあるように、これはひとり介護に苦しむ方々の目に、少しでも止まるようにとの編集者の配慮から付けられたものです。

実際には多くの社会的な支援を受けながらの介護になった様子が描かれています。もちろんお皿に載せられた支援がポンと差し出されるわけではなく、走り回り協力を求めれば、やがて多くの手がかりが見つかるという意味です。

私たちの社会は「老い」と「死」をややもすると隠し語りたがらないような傾向があります。それゆえに実際に老いと死に向き合い始めると途端にどうしてよいかわからずに、よりよい準備を進めることができなくなっているということもあるのではないでしょうか。

親の介護に入る前の心構えとしても本書はお薦めです。