酔眼漂流読書日記

本と音楽と酒場と言葉

1998/12/23 Wed.

名古屋にて。通りすがりにあったインターネットカフェ(なんとなく死語のような響きがあるが)に入り、某無料メールアカウントを申し込んでみる。goo で「無料 メールアカウント」というキイワードで検索したら、そのものずばり無料メールアカウントサービスへのリンクを集めたサイトが見つかったのである。名古屋市内のカメラ店を何軒かまわってFUJIの「チェキ!」(名刺サイズの写真が撮れるインスタントカメラ!=デジタルカメラ)を探すが、どこでも売り切れ。

いまから申し込んでも2月以降の入手になるだろうということ。それにしても1万円のこのカメラはとても面白い。Dreamcastはまだ買う気になっていないが、チェキ!はもし目の前にあったらプレミアを載せてでも買ってしまうかもしれない。

夕方は名古屋駅前のNOVAへ。来年訪れようと密かに狙っているスコットランドの話で盛り上がる。

ところで本屋でつい「パソコンを疑う」(岩谷 宏/講談社現代新書)という本を買ったのだが、読んでみるとこれはなかなか「と」な本である。休日に読むとなかなか楽しめる。少し長くなるが引用してみよう。

『プログラムはユーザが書くべし、作るべしという近未来に関する私の主張は、原則的には実際に特定の情報処理ニーズを持つ当人がそのためのプログラムを書く、ということですけど、プログラムの構造やストーリーを具体的に詳しく専門家に伝えて、彼に書かせるという、ちょっとお金と時間のかかる方法もありえます。そういう専門家のことを、プログラマではなくコーダ(coder, コードを書く人)と呼びます。コード(code, プログラムを構成する符号を記述する)はこの場合動詞で、コンピュータに対する命令の羅列を書く、という意味です。ですからコーダは、単純な機械的な作業をする人です。今日のプロのプログラマのような、有害な人々ではありません。
近未来において、プロのプログラマは消滅しても、おそらくプロのコーダの需要はかなりありそうです。マイカー隆盛の今日でも、どうしてもタクシーを利用したいときがあります。自分が行う記述行為よりは他人への意思伝達のほうがよっぽど得意で、そのためのお金も暇もあるという人びとは、コーダを自分の手代がわりに利用するでしょう。』(29ページ)

確かにプログラムはユーザが書くべしという主張には一理あると思うが、その他の主張は首を傾げざるを得ない。例えば「自分が行う記述行為よりは他人への意思伝達のほうがよっぽど得意で、そのためのお金も暇もあるという人びと」が、そうそう世の中にいるとは思えない。それなのに何故「近未来において、プロのプログラマは消滅しても、おそらくプロのコーダの需要はかなりありそうです」という結論になるのであろうか。世の中の趨勢は、単なるコーダに生きる道はないとさえ言われ始めているのに。もしこの著者の言葉を素直に信じて「よおし、俺は(私は)プロのコーダを目指す」という若者が出てきたら。。。まあそれ位素直な人は本当にコーダをやってもらった方が良いかもしれないが(笑)。

処理ニーズを持つ当人がそのニーズを伝えれば、そのために必要な「プログラムの構造やストーリーを具体的に詳しく」考えてれるのがプロのプログラマというものである。この著者は例えば専門家であるユーザ自身に VisualBasic や C を使って自分の必要とするプログラムを作れと促しているようであるが、そういった形で作成されるプログラムは、一部の真に才能あるユーザが作るものを除き、ちょっとした用途には使えても応用になるとお手上げで、場合によっては危険性すら伴うものになり得るとは著者はお考えではないようである。

あまりにも面白いので、もう一箇所引用しよう。

『ユーザプログラミングという理屈は、三歳の小児にも理解できよう。操縦系の制御機能の一部をコンピュータ化してあるヒコーキに乗るとき私なら、そのプログラムがプログラミングのプロではなく航空機操縦のプロ、すなわち操縦士達が練りに練って作り上げたものであるヒコーキに乗りたい。』(77ページ)

卓見である。仕様と設計の溝は誰かの手によって完全に埋められるべきであるという主張であろう(もちろん著者によれば、この溝を埋めるのはプログラミングのプロではあり得ない、何らかの専門家である、それが誰かはわからないが)。ここまで言い切っていただけるといっそ清々しい。確かに完全な最適化を行ってくれるドメイン指向の実行可能仕様記述言語があればこの著者の主張ももう少しは真実味が増してくるかもしれない(とはいえ今の段階では私はパイロット達が寄ってたかって作り上げた制御プログラムを持つヒコーキには決して乗らないと思うけれど)。

とまあ、少々茶化して書いたが、公平を期すために付け加えると、利用者による設計への直接参加というアイデア自身には見るべきものがあるし、実際に認知科学上の古典的な研究テーマでもある。この本はこうした主張の敷衍だと思うこともできる。しかしこうした研究を進める学者達でも1から10まで利用者に設計させよとは主張しないだろう。例えば、利用者が設計上の嗜好を反映させやすいような基盤構造を、プロのプログラマが用意することには強く異は唱えないものと思うが。。。。

この本の興味深いところは、なかなかソフトウェアの世界の事情に精通しているような書きっぷりの中に(そのなかには確かに一般論としてまっとうな主張も多いのだ)、まだら模様のように上記のような記述が入り込んでいることである。あ〜我慢できない。最後にもう一つだけ引用させていただこう。

『(GUIをさんざんこきおろし、Macintoshの売上が不振なのもGUIのせいだといわんばかりの主張をした後で)今日、Macintosh コンピュータは世界中の全パソコンの台数の四%弱であり、その比率は年々小さくなりつつある。またこの Macintosh の図像型ユーザインタフェイスをそっくり真似した Windows PC に関しては、このようなインタフェイスを採用したから急に売上台数が伸びた、という実績や証拠はない。』(151〜152ページ)

今度ファンレターを出してみようと思う :-)

講談社現代新書もなかなかやるものである。

(でも 2010 年 5 月現在まだファンレターは出していません。最近はどうなさっていることやら)