小椋佳の初期のアルバム「残された憧憬~落書~」の中に「野ざらしの駐車場」という曲があります。このアルバムを買ったのは高校生のときでしたが、歌の持つ寂寥とした雰囲気は好きだったものの、 「駐車場」が何を象徴しているのかはあまり深く考えていませんでした。
腰をおろしたきりかぶ 小首かしげた野うさぎ
久しぶりです あぁ ふるさと
砂ぼこり 砂ぼこり 野ざらしの駐車場
これも仕方のないことでしょうか
今聞き直すと、失われた過去の思い出の場所と、それに目を背けて来た自分への後ろめたさを歌ったもののようにも思えます(まあしかし、様々な解釈が可能な歌詞だと思います)。
さてこの歌を思い出したのは、実は次の歌を聴いたからです。
歌詞の中で繰り返される
どこもかしこも駐車場だね どこもかしこも駐車場だよ
どこもかしこも駐車場だわ どこもかしこも駐車場だぜ
どこもかしこも駐車場
というフレーズが妙に耳に残ります。
コミカルな歌とも言えますが、ここでやや強引にこじつけてみましょう(笑)。
さてこちらの「駐車場」とは何でしょう。この PV を見ているといくつかのことが目に入ります。ひとつは多くの人が森山直太朗の前後を横切っているのですが、歩いているひとはみな「歩きスマホ」であること。ふたつめは歌っているうちに段々直太朗が年老いていくことです。
現代における駐車場、特に「どこもかしこも駐車場」という光景は、いわゆるバブルの爪痕として地方都市の駅周辺や、住宅地の中などにも見受けられるものです。
小椋佳の「野ざらしの駐車場」は、忘れていた故郷に時間をおいて戻ったときの喪失感を象徴していたのかもしれませんが、森山直太朗の歌の方は、ひとりひとりが直接他人を見ずにスマホを眺めている間に、身の回りの色々なものが駐車場(空虚な)として侵食されていき年老いてしまう、という状況を象徴したいのかも知れません。
まあこちらも「野ざらしの駐車場」と同じように、聞く者の中に様々な想像をかき立てる歌だと思います。