酔眼漂流読書日記

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医療の限界

医療の限界 (新潮新書)

医療の限界 (新潮新書)

日本人の多くが、全国規模に展開する「均一品質」のサービス(コンビニ、ファミリーレストラン、宅配便 etc.)に慣れてしまっているために、医療に関しても同様の「均一品質のサービス」と「結果」を求めるようになっています。そのため患者死亡まで至らずとも、思ったような結果が医療行為の結果得られなかった場合、それを「不当」なものとして医療機関を告発にかかる人が増えています。しかしそれは大いなる間違いであるというのが本書の乱暴な要約です。

明確な悪意があった場合にはもちろん犯罪ですし、機械の操作ミスで血管に空気を入れたとか、薬の取り違えによって起きた医療事故などは、確かにある一定の「業務上過失」を問われても仕方がないでしょう。運用体制に問題があったのかもしれません。
しかし、それ以外のベストエフォートとしての医療行為そのものを取り上げ、些細な手技の違いをあげつらい、他所の病院で行っている治療(しかしその効果は確定していない)をこの病院では行ってくれなかったといったといったクレームを上げることは、結果的に医療現場を疲弊させ、完全な安全策(つまり何もしない、難しい患者を引き受けない)という行動を誘発しやすくなるという弊害があります。機械を修理するように人間は修理(治療)することはできないので、同じようなケースでも必ず同じような結果が得られるわけではないのです。

そもそも医療事故が起きた場合には、それが事故である以上、その原因と過程の分析と可能な限りの回復治療を医療従事者自身が十分に、患者との対話を交えながら行えるようでなければなりません。もちろん医療機関側が事故を隠蔽しようとしたり、功名に走って危険度の高い治療をむやみに行ったりという不幸な事例もあったため、患者が疑心暗鬼になる場合もあるとは思いますが、「事故」を始めから「犯罪」として扱い、第三者(警察)が介入して証拠を持ち去ってしまっては、実際に何が起きたのかを医療担当者自身が振り返り解析することすらできなくなってしまいます。犯罪として弾劾されることを恐れるがゆえに、つい事故を隠蔽してしまうということも起こりえるでしょう。治療の効果が出ないことだって多々ある筈なのに、それをいちいち「事件」扱いしていては、患者にも医者にも不幸しか待っていません。

医療事故を取り上げるマスコミの態度にも問題があります。「悪者」を発見し、その「責任」を追求し、血祭りにあげなければ気が済まないといった姿勢の報道もときおり見かけられます。しかし不毛な犯人探しは、患者と医療機関の消耗戦を煽るだけです。たとえば検察側と弁護側がお互いに自分側に不利な証拠となる医学論文を採用しないといった滑稽なことが起きる事になります。

もちろんだからといって、医療関係者が細心の注意をはらう義務がなくなるわけではありませんが、ヒステリックな犯人探しを始める前に、やれることはいろいろある筈です。これは「生きている」私たち全員が冷静に考えて行かなければならない問題なのでしょう。少なくとも法曹関係者やジャーナリズムに携わる人たちには、本書で書かれている程度の「医療の限界」はわきまえて議論を始めてもらいたいものだと思います。